当たり前はない

当たり前はない

「閉店いたします」

久しぶりに訪れるお店でした。新規訪問先の呉服店。
緩い坂道を下っていくと見えてくる、きれいで大きな建物。
店内は暗く、ウインドウに大きな張り紙がありました。
閉店する旨の内容。
店の長い歴史とこれまでの感謝を伝える文面を見ると、この場所に馴染みのない僕でも、なんだか寂しさがこみ上げてきました。

親子で営まれていたお店でした。
まだそんなに長く話をしたわけではありませんでしたが、誠実に商売をされていただろうということは感じ取れました。
この先も、ここで店を続けていくのだろうと、勝手に想像していましたが、終わってしまった。
単に、営業訪問先が1つ無くなった、ということ以上に、心に影を落とす出来事でした。

 

 

ところで、今週は、いつも仕事をお願いしている織り手さんのところへ、織り方などを教えてもらいに行ってきました。
これで何度目かになりますが、毎回とても親切に教えて下さるこの方、80歳を超えておられます。
僕がこの仕事に入って4年が経ちますが、品質に大きな変りはなく、ずっと安定したペースで織り上げて下さいます。
そして、分からないことを聞けば、いつも丁寧に答えて下さる。
「ありがたいなあ、」と感じるその瞬間、冒頭の「閉店」のことが頭をよぎるわけです。
いつまでも続くものではないぞ、と。

職人の高齢化が叫ばれている昨今、もはや考えるまでもないことですが、いつも織って下さるあの人も、糸染めのあの人も、整経、仕立て、しみ落としのあの方々も…
いつまでお続けになるのか?いつまでお仕事を頼めるのか?その後は?

そういった危機感は常に抱えているつもりですが、日常が滞りなく廻っていると、その中に少しずつ埋もれて見えなくなってしまう。
しかし、滞りのない日常というのは、当たり前ではないのだな、と。
なくならないと勝手に思っていたものが、あっさりなくなっていた、という今回の出来事で、深く心に刻まれたような気がします。
「有り難い」とは、よく言ったものだなあ、としみじみ思います。

つくり手だけでなく、売り手も少なくなっていくことが容易に想像できます。
どんどん足場がなくなって、窮地に立たされる前に、やるべきことは何なのか。
人と協力するにも、人を育てるにも、まずは自分が力をつけないと始まりません。
遠慮していたり、忙しさにかまけていたり、他のことを優先している場合ではない、と思い直しました。

…といった、今回はごく個人的な話でした。